命をいただくということ

消費する、という言葉に、しばしば僕たちは騙されがちな時がある。

「消費者」という呼称をいつの間にか受け入れ、経済の中でその役目を果たしているような錯覚にとらわれる。

 

先日、京都でたくさんの「食」に携わる人たちにお会いした。

実際にその場におられた方が真剣に育てた野菜、そしてそれを真剣に調理、料理された方の料理を口にした時、僕の中で決まってある感覚が芽生えるのだ。
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命をいただくという感覚。

 

これほど崇高で神々しい行いはない。きっと人類全てに、いや、命あるもの全てのDNAに遥か昔から刻み込まれ続けてきた感覚。

大量生産されたものを消費する。その慌ただしい流れの中から外れ、ふと本来あるべき姿に立ち戻る。

命ある限りに、命あるものをいただく。この身体の中に取り込む。

日本人として世界に誇るべき食に関する最も美しい言葉、「いただきます」を心から実感する瞬間。

 

以前ジビエ料理をいただいた時にも、この感覚になったことがある。

生きるということと、その命をいただくということ。それを痛感した。

おいしくないわけがない。何よりも美しい味。言葉にするのもおこがましい大切な味。

京都では、このジビエ猟の猟師さんにもお会いすることができた。

 

命の最前線に立つ人たちの迫力は、圧巻。生きるということの本質を知っている人たちの繊細で豪快なとことんまでの野生感には、心から感服する。

 

僕にとっては、万年筆との出会いもまた同じだった。無理矢理かもしれないけれど。

心もまた、命なのだ。

その心のやり取りに真剣に向き合える道具。

 

どちらも同じように、手間がかかるし、24時間いつでもどこでも手に入るものでもない。

値段もそれなりにする。でもそれは高いのではなく、そこに本物の価値があるからだ。

 

命をいただくことも、心を贈ることも、それは決して「消費」であってはならない。

僕はそれを強く実感した。

 

たまには消費することをやめて、しばし立ち止まり、ゆっくりと命をいただく。

心に良いものを食べましょう。それはきっと身体に良くて、命に良いものだから。
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